2009年07月03日

ハニガンさんを思う。アニーより

ミュージカル・アニーの物語に登場する、
孤児たちのいびり役ハニガンさんの、
パーソナリティを中心に書いてみようと思います。
世界大恐慌時代のアメリカ、主人公である児童アニーは、
ニューヨークの孤児院で暮しています。
ここに彼女や孤児らの敵役となる孤児院の管理者、
ミス・ハニガンが登場するわけです。

この物語は勧善懲悪がはっきりしていて、孤児たちをいびり、
口汚い言葉を浴びせる性悪女像ミス・ハニガンの悔しがる様は、
見ていて非常に爽快です。アルコールに溺れるわ、
機嫌が悪いと孤児に八つ当たるわの彼女は、
もう、とんでもなく意地悪な女性として描かれます。
その一方で、外の訪問者には悪さを気づかれないよう、
脅しまがいの方法で、孤児たちにこう言わせるのです。

「だーいすきです!ハニガン先生!」
それは半ば孤児たちの間で皮肉にもなっているのですが、
この作品、児童虐待の構図をよく描いていると思います。

さて、女性の汚名だけで作られたようなキャラクター、
ミス・ハニガンの良心が、場面に描かれる作品があります。

アイリーン・クインがアニーを演じた、映画版です。
日本の舞台と概ね筋は変わらないのですが、
アニーをかばうシーンが挿入されているのです。
はみ出し者の弟ルースターとツレのリリーが、
アニーを殺そうとした時、ハニガンが血相を変えます。

決して、虐待を奨励する意見を申したいのではありませんが、
私には、だんだんとこういう考えも芽生えてゆきました。

ミス・ハニガンの歌うリトル・ガールという曲の中で、
“愛を知らない、愛に飢えている自分に子供を愛せなんて、
 それはまず無理な相談だよ。
 頼れる男性、自分を愛してくれる者も傍にいないのよ。
 それなのに大人数の母親なんて、出来るものか。
 それがあたしの本音よ。現実よ。”

そんな内容が描かれます。

これは正直、わかる気がするのです。
子供の立場からしたらいびり女なんて鬼でしかない、
その一方で鬼を隠して天使であれという立場の維持も、
心の中で、鬼にしごかれている状態になりましょう。
ですから、鬼のハニガンにも良心はあったというのは、
しっくりくる描き方だったわけなんですね。

でね、虐待児の状況を調査すればわかるのですが、
アニーに登場する孤児たちのように、
明確に自らの反発心を意識出来るというのは、
精神の健康を判断するための一指標でもあります。
逆にルースターやリリータイプの人間が面倒を看ていたら、
棒切れみたいに存在感の薄い、子供が登場したのではないか?
私は、そんなことを思ったりします。

からかいたくもない相手よりは、反発を明確に意識し、
からかいたくなる人間の方が、
子供は相手に対して、好意を抱いているらしいですね。
posted by 澄美 at 20:04| 心の薬味と受容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月30日

理解のタイムラグって換算しています?

今日はまた一つ、愛や理解の深さを思い知りました。
といっても惚れた晴れたの恋でもなくて、
“剣を鍛えたような愛や理解”のことです。
ところでどなたか、知っていますか??
理解の獲得にはタイムラグのあることを。
それはあまりにも思いがけない、訪ね人のようです。
剣を鍛えたような愛なんて立派そうなものも、
平均的な日常では、まずは目立たないもんですし。
それこそ空気みたいな、透明のものなんです。
人間が、無闇に色づけしちゃったけどね(笑)
或は色がついていないのは愛じゃないって、
人間の方が思ってしまったりしてさぁ。
いんや、透明だから色を見てしまうのかもしれない。

さて、そんないるんだかいないんだかの愛もね、
妙にくっきりと顔を出すことがある。実はそれね、
意外とアクシデントの最中でもあったりします。
そうして貰うばかりでないけれど、慰める人がいる、
痛みを分かち合う人がいるってのは、いいですよね。
そう言われるとつい後追いでやってしまう、
分かち合いごっこのことじゃなくて、ですよ。
――誰かが先にやってうまくいったからするじゃ、
   気分の話に留まってしまうじゃないですか。
   それが、一過性のものとなるのは明白なことでしょう?――


ここで描こうとしているのは、ごっこではないんです。
大事なのは自分にとって、その時であることなんです。
強いて言えば、急いで無闇に持ち上げられるよりも、
一定のタイムラグもあってとうとう理解を得た時かな。
間があっただけにむしろ、自分が届いた感じがするのです。
何かそう・・、そういう感じのもので気分よりも長く、
深く、比較的持続的で、ささやかな温かみなんです。

早急に感情を向けて貰うのも元気を得る材料となりますが、
同時に最近、“すぐにわかってもらえないことの中”にも、
理解が存在することを改めて感じとれるようになりました。

いや、“理解”の付与や享受とは時間をかけるものでもあるけどね。

ええ、気分しのぎの愛を与える、それはわりと簡単なことなんです。
ただ、気分でなくてずっと心に残るものをといえば、やはり、
調子合わせの関係ばかりからは生み出せないんですよね。
愛や慈悲を得たいのであれば、自分でも、
目に見えない良さの意味や知覚の仕方を根気良く、
理解するくらいでないとね。

そういうのを容易に与えないのは人間の悪さというよりも、
自然の文法が為していることなんです。
テスト勉強といったものならばいざ知らず、
理解への努力を惜しむ者には与えられないものがあるらしい。
その点は外部的な人の力じゃ、何とか出来ないのです。
自分や環境と共に内なるものを育てる必要があるのです。
posted by 澄美 at 04:34| 心の薬味と受容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

分裂機制を考える。

能力のよく発達していない時期にある子供は、
自分(わたし)と他者(あなた)を混同する反応を多く、
見せるそうです。
自分の特性を他者のものと思ってしまう世界観、
それでしたら、好ましい持ち物は自分のもので、
そうでないものは相手のものである、
そうなるのも無理がありませんよね。

この発想の延長で思い当たるのが、
分裂(スプリッティング)です。

自己中心性と呼ばれるものは冒頭の表記に値しますが、
私は、分裂機制との関連性をしばしば想起します。

自分の立場を離れて、他者を見ることが出来ない。

その点への固執がいつまでも心に続いてしまう状態は、
安心でありながらも、楽ではないかもしれませんね。

分裂は、文字通りに白か黒かの世界への入口です。
自分以外の他者が、何故そのように発言したのか??
それを他者・相手との面と向かい合った、
対話で確認するよりも大事なことがあるという、
“コミュニケーション未満の価値観”への固執を作ります。

直接会って、直接話したこともないのに何故だか、
他者・相手をよく知った気になってしまうだとかね。
例えばそれは周辺ルートの知識収集という相手に直接、
面と向かって関わったことのない、接点の持ち方です。
起点の態度から既に自らが他者の中心に触れていない、
そうした不備・甘さをよく示している方法なのですが、
その認識不足に守られるにためには、打ってつけです。

ウーン。やはりこういうのも、
分裂が働いているのかもしれませんね。


けれども、赤ん坊や幼児が対象となれば話は別です。
赤ちゃんには分裂を体験する、大事な時期があるのです。
まだ、精神に耐性が出来ていないのにいきなり、
現実の厳しさにぶつかったら危険だとは思いませんか?
ですから、赤ん坊に起こる最初の分裂は咎めようのない、
ファンタジーでもあるのかもしれません。
posted by 澄美 at 17:03| 心の薬味と受容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

さて、私よ。

頭がいいと思われたいかい?
言い当てる自分でないと怖いかい?

でも、言い当てる自分に固執してばかりの者はまず、
愛にあまり恵まれたことのない歴史でいっぱいだよ。

さて、私よ、言い当てられる勇気を持てるかい??

私が、クライエントたちから一番学んできたのは、
言い当てられていく勇気の保持と育成なんだよ(^^)

頼りないから、ダメだから言い当てられるんだって、
そういうひいてはクライエントでもあった私自身への、
私の中の最初の驕りを着実に壊し、再生に導いたのは、
すごい人たちや頭のいい人、エライ人ではなかったの。
ステイタスという鎧の奥でびくびくしている人よりも、
裸一貫の精神で飛び込んでくるクライエントさんたち。
最初は鎧を着ていても、その価値あるものを外す姿。

まっさらな心はとても深く、広く、
本当に大事なことを教わったんだ!

人間社会の生抜きに鎧は必要でもあるけど、その中の、
ちっぽけな自分を恐れるようになってしまっては、
やっぱりさ、違うよね!きっと、幸せではないと思う。

言い当てゲームなんかしているうちはね、
怖いのさ。自信が無いから、なのさ。
自分の足元以外で言い当てゲームしているなんて、
どこかに痛烈な敗北感が蠢いているからなのさ。

自分の言語では絶対に、語れないんだよね。
生み出せないんだよね。だから、執着するんだよね。
そう・・。利口である自分や馬鹿を崇拝する自分にね。
頭が悪い自分を知っている頭の良さだとか、色々、色々。
さて、私よ、言い当てられる勇気を持てるかい?(^^)
posted by 澄美 at 04:27| 心の薬味と受容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする