2009年11月07日

異なる、ソウルメイト。

時々、不当に感じられることは不当だって言う、
自分の感情を尊重する責任を果たしておかないと、
私の心はスプリッティングの刑期を終えられない。
大事にして貰ったことがあっても、まるで一度も、
大事にされたことがなかったような、
世界観の継続にピリオドを打てなくなってしまう。

私が、しっかりとそれを主張できた時程に、
大事にして貰ったことをも思い出せるんだ。

他方、どうやらそれは相手にとっても同じらしく、
私の腹に飛び込めた時、その人も、
大事にして貰ったことを思い出してしまうらしい。
人同士が関係性を育むというのは不思議なもので、
意見の食違いが繋ぐ、新たな絆というものがある。

だけどもし、私や、相手の下に子分がいたりして、
その衝突が一対一にならないとなれば、
新たな絆への道のりとはより、複雑になるだろう。

「だから、自分たちに生じる分かち合いの方法は、
 自分たちには適用できても、無闇には薦められないね。」

揺さぶりと抱えによって関係性を繋いで来た、
例えば私と誰かは、その点で笑い合ったのでした。
そういう人物と共にいることは思いがけず、
何年も前に刺してしまった心の杭が、自分に再び、
意識されるきっかけともなるのだろう。

しかし、その人との関係性こそが、杭を抜いてくれるのだ。

柔らかくそうである時もあれば、
ショック療法的な経過の方が、
むしろ、予後が良いこともある。

どうやらそういうものを司る、ソウルメイトがいるという。
そして、その二人を見守る、
優しきソウルメイトもいると思う。
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posted by 澄美 at 23:34| 日常のあれやこれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヒーローがいなくても。

上り坂への適応を学んだのが始まりならば、
20代の半ばを過ぎたあたりから、私が知ったのは、
上り坂と下り坂、両者のの加減を扱うことでした。

わかりやすく、良いと悪いが分かれていたあの日、
余分な知識の無い身軽さに貰った、
弾けるような笑顔を持ち物にしていました。

その頃程に年がら年中、今は、
無邪気な笑顔を振りまいてもいられないのですが、
それをいけないことだとも思えず、ここにいます。
どうしてだろう・・・。

表立たない憎しみ、悲しみ、
それがもたらす不条理は多い。
思った以上にそういう場所でもあったのが世の中、
だのにそれに気づいてしまった後悔はないのです。

私は、そこでどう生きていこうか。ただそれだけ、
ただそれだけのことを思うためにも、
私には、相応の時間が必要でした。

そんな心境にある現在では精神を救ってくれると、
そう感じられるテレビドラマもなくなりました。
つまりはテレビドラマを通して、私を救っていた、
私の中のヒーローはいつの間にか、
昇華されていました。

だけど、自分の生きる足場とはこの場所なのだと、
腹の方が、妙に据わってきた感じがするのです・・。
やれるだけはやるし、やれないことはやれません。
精一杯、自分の限りを生きるのみです。
posted by 澄美 at 22:27| 自分を見つめつつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月27日

行く年、来る年、過ぎた年

今時の駄目な若者に見られなくないと思う若者や、
若者に見られたがる年寄りがいるというのは、
おそらくは若者である苦労も年寄りである苦労も、
共にある場所が、この世ってことなのでしょうね。
喉元過ぎては忘れてしまいながらも、
実際に当事者であった折の人間とは、
当事者たる葛藤を味わっているものです。

もしかしたら、その葛藤の所在こそが、
その人をその人の年齢らしく、一番、
厚く、輝かせもするのではないでしょうか。


今、私は、のんびりと動いています。
マメな子供だったのが嘘みたいですが、
かつては活動することばかりが楽しくて、今は、
その素早さによって見落としていた、
相当数に上る、世界の閲覧を楽しんでいます。
場面を味わっています。

そ!順調に年をとっています(^^)
順調にというのはね、転ぶことも含めてよん。

私の後からやってくる若者たちも、
気がついたら、だいぶ増えていました♪

別に特別なことをやって貰おうとか、
無理をして貰いたいとか、彼らに対しては、
そういうことは全〜然、思ってもいません。
焦りの感情も、ね。

ただ、私の生きた年齢を埋める若者たちが、
後ろにいることには何となく、安らかなる気持ちを覚えます。
それはたぶん、私も、自分にできることをやって、
できないことはやらなくて、
一年一年を過ごしているためです。

時々、どうして自分はこのように独特な人生を、
生きているのだろうかとも考えます。
――いえ。皆それぞれが、独特の人生を歩むのですけれどね。――
自分次第に始まって行き着いた、発想は自然のプログラミングです。
つまりは活躍する飛躍的人生にも、目立たない人生にも必要があって、
そのあり様が、存在しているのではないかと思ってしまうのです。

左程、理想には振り回されず、かくたるべき緩みに沿って、
のんびりと生きる方法を選択した私。それまでの様々な葛藤は、
他者の与える許可に左右されるのではなく、
今少し、“自分を見つめてみること”を知らせてくれたのでした。
posted by 澄美 at 12:30| 自分を見つめつつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

超自我の失速。

私たち人間が現代社会を生きるというのは、
“日々、与えられることの連続である”と思います。
それは半ば無意識的な現象ではありますが、言い換えれば、
“自覚を持ち得た際には、望まぬものとなる”にも関わらず、
それらは、自然に注がれている状態にもあるようです。
さて、ここで今、金銭を連想されたかたがたには、
「搾取されていくばかりだよ。
 何が、与えられ続けられるものかね!」といった反論が、
心中に沸くこともあるやもしれません。
しかし、それは、正常な反応であると思います。
何故って、“それ”が関わることもありますが、
ここに言われる与えられるものの本質とは、
まずもってお金ではなかったのですから。

ええ、情報のことなんです。
“知る”という領域の、広さのことなのです。

今よりも、知識的に不明な領域の多かった時代、
眼前に広がる未知なる空間は、
私たちに良き幻想を齎していてくれました。
そちらが、徐々に明らかになるにつれて、
進歩という名の歓声もあがりましたが、私はむしろ、
――知識を拡大した人間たちの中には、――この世における、
あまりにもの素朴さ・純粋さ・平坦さに落胆した人も、
少なくはなかったのではないかとも思っています。
例えば、反抗的態度とは対勢力の裏返し行為に近く、本質的には、
対立対象と同等のアクションを起こしているに過ぎないことや、
人助けの使命感や結束力も行過ぎれば、
個人を貶める可能性も充分にあること等、言わば・・・、
自分なりの正義という、
“わかりやすい目的を追うロマンの消失”を情報過多は、
大いに助けてくれている気がするのです。

そうして目的に向かって走れなくなって、歩けなくなって、
その場にペタリと座り込んだ現代人の気配が、
徐々に増えてきているような気がするのです。
「今時の若者は・・・・。」なんて、言われないようにしよう。
そう思って頑張ってしまった私ですが、
そんな私もいつの頃からであったか、
いい意味で失速するようになりました。
ああ、私は失速出来なかったんだと思った時、
大変なことに気がつきました。
寿命の短かった時代には重要だった、
早熟性を現代に適応すると楽しみを味わえる感受性が、
消化されても尚、寿命は長く、遥かに続くことになるのです。
これは、生きながらにして死んでいるようなものですよね!!!!

そういう運命を歩ませる職種もありますが、
人間が皆、そうなってしまうと困るわなぁ・・。

そういうわけで最近、今時の若者は今時の若者であって、
それはそれで充分なのではないかと思うようになりました。


パートナーとの現実的な歩みを求める女性にとって、
二次元しか望まない男性の存在とは困りものではあるのですが、
二次元世界に固執できるおたくさんたちの個性とは、
現代長寿社会における、生命力のひとつでもある気がしています。

超自我に支えられてきた私にとって、
相応に失速できるようになってきたのは、
わりと上出来だと思うこの頃です。
posted by 澄美 at 11:11| 心の薬味と受容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする